2024/04/30/TUES
鮮やかな色が飛び込んできて、感嘆符が喉の奥まで上り、そのまま深いため息となって胸を下りていく。数日、それを繰り返す。桜の薄い花びらが吸い寄せられるように地面に向かい、ぴたりと貼りつくのを見た。私の足と同じように何度も地面に貼りついた。春が来る少し前の冬の方が、命が芽吹こうとする活気があり、春よりも春らしいと感じる。実際に春になると、沈み込むような空気の中で生き物たちが縮こまっているようだ。春はいつもこうだっただろうか? 脚の長い椅子に腰掛け、脚の長いテーブルに肘を乗せていると、宙に浮いているようだ。畳んだビニール傘の先から雫が落ちて、床にごく小さな水溜まりを作っている。私の部屋には長い間カーペットを敷いていた。最近家具の配置を変え、カーペットを剥がしたから、朝起きた時に床に足を下ろすと冷たくて驚く。家具を動かす際に、見慣れすぎて視界に入らなくなっていた物を改めて手に取った。時の重みが押し寄せてくるので、私はコンビニに駆け込み、おにぎりを食べた。コンビニに行く途中、電話ボックスのガラスに吹きつけられる花びらを見た。地面に集まって川のように流れる花びらを見た。踊り場の隅で、静かに桜で居続ける花びらを見た。
表を救急車が通る。天井に明かりの点いていない電球が吊るされている。半透明の丸いガラスに、小さくなった窓が映っている。ガラスの曲面に歪みながら、そこだけ光が際立っている。部屋全体は均一に白く明るい。夜、電気を点けてもこうはならない。明かりを小さく弱いものにしているから、光を浴びる場所と影になる場所が生まれる。模様替えをしたばかりの部屋は、今見えていない場所がどんな風か、だいたい想像できる。クローゼットは扉を開けたままにしてあり、中まで光が届く。その上にある天袋は扉を閉めている。暗がりに仕舞われた箱の中の物は光を浴びたがっているだろうか? 目を閉じると、自分の体の中に暗がりを感じる。暗がりが熱を持っていて、呼吸とともに動く。寒さと温かさが同時に揺れている。寒さが勝ってきたのでコーヒーをレンジで温める。三十秒、レンジの前で待つ。陶器のカップに木の蓋を乗せる音が好きだ。かぽっと可愛い音がする。春だというのに寒いので、もう仕舞おうと思っていた毛布を体に巻きつけ、鍵盤の前に座る。やがて毛布が私の肩を滑り落ち、私は毛布の落ちるに任せておく。
苺を三粒、お気に入りの青いグラスの中で潰し、お砂糖をスプーン一杯かけて、アーモンドミルクを並々と注ぐ。以前はよく牛乳を飲んでいたけれど、今はあまり飲めなくなったから、代わりにアーモンドミルクを飲んでいる。それでも苺ミルクは子供の頃と同じ味に感じる。昔、家に苺ミルク用のスプーンがあった。スプーンの楕円の部分が苺の模様になっていて、苺の粒々の所にぼこぼことした凹凸があった。そのスプーンで苺を潰すと潰しやすいのだ。今日も、苺の粒々が綺麗な緑色だ。いつ見ても不思議な粒々。間近で見過ぎると、苺の世界に閉じ込められて出てこれなくなるかもしれないから気をつけよう。苺は中がまた美しいのだ。とんがり帽子のように苺を立てて二つに切ってみると、中にロウソクの火のような明かりが灯っている。小さな部屋に明かりの線がすっと引かれて、線の一本一本は、外側の緑色の粒に結ばれている。明かりを灯したかまくらが、そのまま時を止めているみたいだ。でもきっとその線は止まっているのではなく、流れているのだろう。止まっているように見えるのは、私と苺では違う流れにいるからなのだろう。
軽くなった服で外に出る。地面には砕けた桜の花が集積している。桜の次はツツジが咲き誇る。横断歩道の縞々がいつもより鮮やかだ。日増しに光が強く鋭くなっていく。曇りの日は空一面真っ白で空気も重たいが、その雲が退くと段飛ばしで夏に近づいている。風が強くて私は目を開けていられない。鳩は圧されて歩けないし、自転車は一人で立っていられないようだ。木々が大きな枝をしならせている。何もかも見知らぬ景色ではない。似たような景色をたぶん何度も見たことがある。強風に木々が揺れるさまも、何度も見たことがある。しかし「強風に木々が揺れるさま」という言葉がいつも全く同じ景色を指すわけではない。同じような景色も、全く同じではないし、全く同じように感じることもできない。ところで、同じような景色だと感じることの中には、景色と景色を結ぶ「同じ」と、私と私を結ぶ「同じ」がある。そこには二つの等号があり、二つの等式が出来上がっている。ある景色と別の景色が同じようだと感じ取る私は、その景色間にある同一性を感じ取ることで、ある景色を見た私と別の景色を見た私が同じ私であるという、私と私の同一性についても、暗に経験しているのだ。一回の経験の中に、二重の「同じ」が経験されている。同じような景色は、同じ私を連れてくる。横断歩道の縞々が、やはり鮮やかだ。光が強いから、みんな足元に影を連れて歩いている。
洗濯機を回す間、鍵盤の前に座り、呼吸しながら喉に音を作る。有声音が目の前の壁にぶつかる。私の声がこの部屋のどこをどう走っているのか、見ることはできない。けれど時折、壁に吊るしてある小さなギターのホールに入ったのが分かる。洗濯機が向こうで振動し、轟音を吐き出している。私は椅子の上で背中を伸ばしたり縮めたり。生きている体には、呼吸ができるほどに力が通っている。歌う体には、有声音が出るほどに力が通っている。体の力を全て抜くことはできない。自分が力を入れなくても、体はすでに、生きている状態でいるほどに力を持っている。私は力を入れたり抜いたりしながら、次第に体が元々持っている力の動きに乗っていく。生きている状態の力にすっと乗るだけでいることができたら、それが最も力を抜くということかもしれない。それはきっと心地よいだろうと思う。そう思うのは、力を抜くことが心地よいと感じるように、現在の私の体が方向づけられているからかもしれない。力を入れることが心地よい体の方向もおそらくあるのだろう。体にとって何が自然な状態かは、人それぞれ、その時々で変化する。人は普段、トイレを我慢したり、眠いのに起きていたりと、自分をコントロールすることに慣れているから、体にとって自然な状態を見出すことは、体を思い通りに動かすよりも、不慣れなことかもしれない。思い通りの状態はどんなで、自然な状態はどんなか、自分を観察する。自分の体が思い通りにならない時は、やはり体は天気などと同じ、自然の一部だと実感する。では思いの方は何だろう。思いも自然の一部だろうか? 洗濯機の中から皺々の衣服を一つずつ取り出し干していく。冬の間にお世話になった長袖の割烹着にお礼を申し上げたい。
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