2024/03/31/SUN
BGMが遠い天井を漂流している。背後に赤ん坊のぐずる声が聞こえる。ゆっくりと閉まる自動ドアから冷気が流れ込んで、膝の上から首にかけて、順に寒くなる。ドアの外は明るい。カウンターから、三桁の番号を復唱する人の声。また別の番号を読み上げる声。自動ドアが何度も繰り返しゆっくりと閉まる。コーヒーをすすると、胃に落ちた熱がいっとき温かい。私は右脚を上に組み、右の足首を時々鳴らす。コーヒー豆の悲鳴、柔らかい靴が床を擦る音、私の足首の音。自動ドアの外の音は聞こえない。車道の向こうの建物の中の音も聞こえない。背中の正面で、また赤ん坊がぐずる。怖い夢を見たのかな? コーヒーはまだ温かい。苦味を喜ぶ口の中の絨毯を、ドアの向こうの証明写真に写してはいけない。奪われてもいけない。遠くの窓から光がやってきて、私の右横の世界を遮断する壁に、波が泳ぐ。通り過ぎる人影が波を消す。その窓は店の天井から吊るされた明かりを映して、ガラスに三つの黄色い点を浮かべている。自動ドアがまたゆっくりと閉まり、すぐに開いた。
縦長の黄色い法定速度の上を車輪が滑る。今は葉をつけていない剥き出しの枝が車道に影を落としている。その木は近くの食堂が吐き出すもうもうとした湯気を日に何度も浴びて生きている。さっき空の一部にスピーカーから放たれた声が滞留していた。近づくとその空の下に人が集まっている。高速で走り去る車輪たちが生温かい空気をかき混ぜる。私は人通りの多い道を外れ、帽子を外し、ネックウォーマーを外し、それからコートの前を開けた。自動販売機の群れを横目に、ひらがなとカタカナと漢字をぼんやりと読みながら、私は眠りたい。歩道橋の地面に埋め込まれた粒がダイヤモンドのように光を放って眩しい。今日はそんな天気だ。ビルの大きな窓に白い雲が浮かぶ。木々の下を歩くと、枝の先にたくさんの蕾が膨らんでいる。剥き出しの枝が、遠目に見ても何かを掴もうとする手のように力んでいる感じがしていたのは、蕾が膨れているからだったと分かる。木の中に、ゆっくりと蕾に向かっている流れがある。動きは見えないけれど、姿勢は見える。
自動ドアを出ると、車道の轟音と髪を巻き上げる強い風が私を迎えてくれる。風は冷たいけど日差しは温かい。川面は光と濁りを同時に浮かべている。私はたぶん水の流れよりも早く歩いている。水面に浮かぶ鳥の群れは泳いでいるのか漂っているのか分からない。片目に入った違和感を追い出すことができずに、私は何度もまばたきをする。そのまま一駅分をあっさり歩く。お腹も減らない。違和感の正体を突き止めに天井の高いビルに入り、磨かれたばかりの鏡の前で左目の上下の皮膚を引っ張るが、何もない。静かに滑るエスカレーターに乗って再び外に出る。街を歩くだけで一日に何度も機械からお礼を言われる。人の多い場所では案内が必要なのだ。横断歩道のメロディがあっちでもこっちでも歌を歌っている。少し道を外れると、信号機はもう歌わない。さわさわと枝が鳴るのに混じって、室外機がごうごうと低音を吐き出す。私は毎日人通りの少ない自分の部屋で歌っている。自分の声に案内されて少し元気になることもある。帰宅してドアを閉めた瞬間に、外でしなければいけなかった用事を思い出して、「あ」と小さく叫ぶ。
太陽は水の中にある。木々が水面に向かって枝を伸ばしているから。背中にトマトやセロリを背負ったまま街を超えて歩く。ベンチに座って背中に光を浴びさせると気持ちがいい。噴水の水が筍みたいににょきっと身長を伸ばし、それから不意に消えた。日が傾いて光が黄色い。立ち上がると帰り道のリュックが一際重たい。登り詰める直前の坂道が一番険しい。起き上がる直前の体が最も抵抗を示す。暗くなっていく部屋で明かりを点けずにいると、暗闇の過程が体を侵食していく。私はハヤシライスを実現するべく立ち上がる。明かりを点ければ夜へ向かう急激な変化を少し和らげることができる。数年ぶりに買った玉ねぎに包丁を入れていく。不調の原因になる気がして避けていたが、試しにもう一度食べてみる。炊飯器が働く間、玉ねぎとセロリと牛肉をじっくり炒める。ワインはないからバルサミコ酢と料理酒を少し入れてみる。適当に味をつけ、潰したホールトマトとアーモンドミルクを投入する。炊飯器とフライパンが示し合わせたように、それぞれにいい匂いのお化けを吐き出す。美味しかった。美味しかったその味を、眠りにつく頃また思い出すほどに、美味しかった。
明るくなった毛布に別れを告げ、体を暖かい服で包み玄関を出ると、すぐに陽気が息を吹き返す。記憶の欠片を天日干しにしながら、気がかりなままの、まだ腑に落ちない歌を口の中に口ずさむ。くちばしが橙色の小さな鳥が、人間のいる歩道できょろきょろ何か探索している。しばらく交信を試みるが、小鳥には小鳥の仕事があり、私には私の仕事があるから、長居はしない。机の上のアイスコーヒーがゆっくりと減っていく。天井の光を受けて透明カップが机に短い影を落としている。客観とは何でしょうか? 紙ストローを上昇する残りわずかの液体を惜しみながら問う。氷がまだ解けないでいる。透明カップの底で積み重なって光っている。客観もまた、一つの主観ではないのか。仮想他者の主観。天井でファンが回り続け、私の肺は呼吸を続ける。肩や背中に思考がわだかまるので、風を浴びて帰ろう。帽子はきっと飛びたがるから、あらかじめ両手を準備しておこう。すると帽子が飛ぶ前に、私の指が宙を泳ぐ。
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