とうもろこし

2024/08/08/THURS

 お浸しが美味しい季節だ。前にも思ったが、最近もまた思う。秋にも思うかもしれないし、冬にも思うかもしれない。つゆの素をたっぷりのお水で薄める。私は最近これにお酢とオリーブオイルを少しずつ加えている。うちはつゆを飲めるくらい薄くするから、朝、まだ目が覚めて間もないお腹にも優しい。これに茹でたお野菜を浸すだけで本当に美味しくなる。お野菜は何を浸しても美味しいけれど、ピーマンのお浸しが思いのほか美味しいと最近になって発見した。あとはやはり緑の葉物野菜が合う。中でもほうれん草。茹でて水気を絞ると、お風呂上がりの犬や猫のように縮んでしまうほうれん草。

 尻尾の青いトカゲのようなのが走るのを見た。きらきら光りながら草の中に消えた。夏に強そうな生き物だ。私は夏に弱い。おまけに片頭痛持ちだから、痛み出すと冷房の効いた部屋でも保冷剤が手放せない。暑いのではなく、血管が拡張しないように凍らせた保冷剤を頭に当てているのだ。素朴な方法だが、痛みを和らげてくれる。保冷剤はMacbookの下に並べることもある。私のMacbookは購入した当初から端的に熱に弱い。すぐに熱を持ってしまい、少し使うだけですぐにファンが騒ぎ出す。熱を逃がすために底を持ち上げているが、それでも騒ぐので、応急処置として下に保冷剤を並べることがある。現代技術の産物に不釣り合いな光景だが、一定の効果がある。

 梅雨入りした頃から日に何度も温度計と湿度計の数字を読んでいる。湿度の高い日は除湿機をあっちにこっちに移動させる。満杯になった水を捨てる時、空気中からこれだけの水を吸い取ってくれたのかと思うと感慨深い。除湿機はよく働いてくれる。除湿機だけではない。エアコンも冷蔵庫も洗濯機も、みんなよく働いてくれるいい子たちだ。彼らがいなかったら私なんてすぐにくたばってしまうだろう。と、そう書いた矢先に、洗濯機が何度か動かなくなった。洗濯の途中で止まってしまうのだ。たった今ガタゴトと音を立てていたのに、忽然と姿を消したかのように静かになる。あまりに静かなので見にいくと、洗濯機はそこにいるものの、動作中に点灯する全ての明かりが消えている。電源のオンオフを繰り返してロックのかかった蓋を開ける。暗がりに水をたっぷり抱えたまま、洗濯機は静まり返っている。長いつき合いだったので物寂しいけれど、疲れてしまったのかな。

 ところでエアコンの風は、弱にするよりも自動にする方が電気代が安くなるらしい。楽器の演奏も、弱い音、小さい音を出そうとすることは、その楽器やプレイヤーにとって自然な大きさで音を出すことよりも、むしろ力を要する。だから演奏に置き換えて考えると合点がいく。そう思ったが、調べてみるとそういうことではないようだ。エアコンの場合、風量を弱にすること自体に負荷がかかるのではなく、弱風だと設定温度に到達するまでに時間がかかるから、その分消費電力が高くなるらしい。自動運転にすれば、実際の室温と設定温度に対して、エアコン側で自主的にコスパのいい運転をしてくれる、と。そうとは知らずに、エアコンの自動運転を楽器の演奏に見立て、エアコンにとって自然な力で行われる運転であるかのように考えるとは、身勝手な頭だ。エアコンは君の設定した温度というゴールを目指して運転しているのだよ。

 と、こんなことを考えていると、今度はエアコンからポタポタと水滴が落ち始めた。これは危機的状況である。ドレンホースや内部のフィルターを確認するが、問題は見当たらない。残すはドレンパンとやらの不具合の可能性が高いが、そこは自分で開けない方がいいようだ。ひとまず、水滴のゴール地点に瓶を置く。するとポタ……という音が、しだいにポチャン……と変化する。あまりに存在感があり過ぎるので、瓶の口にスポンジを噛ませ、音を吸収させておいた。善良な処置でないことは承知しているが、今日はもう寝よう。

 外に出ると朝から空気がもんわりと熱い。空気という物質が熱い。ぐつぐつとお湯を沸かす鍋の上のような空気に当たるのは、人間の体には厳しいことだ。けれども人類には散歩が必要だ。私もまた、散歩する自由を謳歌する。暑さに用心しながら、一日のうちのほんの少しの間だけ。濃い色の蝶々がひらひら飛ぶ。軽い体が羨ましい。私も蝶々になりたい。けれど、飛ぶことが愉快なことか苦しいことか、私は知らない。迂闊な願いは持つべきではなかっただろうか。レストラン街の奥の涼しい廊下を、子供が蝶のように軽々と飛び回っている。しかし分厚い窓ガラスや硬い椅子に体をぶつけるたびに、どすっと重たい音が鳴る。

 書くことは冒険だ。それは、知っていることを書くのではなく、知らないことを書くからだろう。頭の中にある書きたいことを書くのではない。書くことで初めて経験する。何を経験しているのか。書くという出来事を経験しているのだが、書くことによって、何かが私に明らかになることを経験している。迂闊なことを書く。するとそのあと、何かもやもやしたものが体に湧いてくる。煮え切らないような、苦い気持ちがすることもある。あるいは単純に、不味い。全く美味しくない。その不味い思いを味わいにいく。お浸しを食べるように美味しい思いは期待できない。しかしその不味い思いに体を浸すことで、何がどう不味いのか、不味さの正体を探検することができる。そこにいるのが私だ。自分を批判しにいくとか、駄目なところを見にいくということではない。思ってもいないことを言っていないか、知らずに嘘をついていないか、自分で気づいていない願いや拘りや、わだかまりはないか。そういうことに気づきにいく。そこで一悶着やり合う。そして、不味かろうが美味しかろうが、これでいいと感じるところに、次の私がいる。

 包丁を入れると、すっと切れる。表面はごつごつと恐竜みたいなのに、中には白い綿が入っていて、ほとんど空洞だ。十代の幼稚な精神のようで可愛い。私の十代の話だ。ほかの人の十代を私は知らない。種と白い綿をスプーンですっかり取って、残されたごつごつを透けるほど薄く切っていく。塩で揉み込むとすぐにしんなりして、もう強さの面影はない。水で軽く洗って、生のまま鰹節とポン酢をかけていただく。最近、苦いものが美味しいとよく思う。それもたまらなく美味しい。食べながらなお恋しい。帰りに何か苦いものでも買って帰ろうと思う。胆汁が不足しているのかもしれない。

 言葉というのはそこらじゅうに流通しているものだから、自分から出てきた言葉が、自分の書きたかったこととも限らない。その多くは私の体をただ出入りしているだけだ。スーパーマーケットをうろうろと彷徨いながら苦味を探して歩くが、あまり続けて食べるとそのうち嫌いになってしまうかもしれないな、などと思い、全く苦味と関係なさそうな、とうもろこしを手に取る。季節のものだから、今はとうもろこしや枝豆が目を引く場所にある。このように、自分の買ったものが、自分の買いたかったものとも限らない。

 とうもろこしを食べる時、まずは一粒ずつ、縦にくり抜いていく。縦という言い方でいいのか分からないが、円に沿うのでなく、円に対し垂直方向に取っていく。それを数センチ、数列分くり抜いたら、くり抜かれた列の隣の列のとうもろこしを、くり抜かれて空いている列の方に、指でパタンと倒すようにして、一気に取る。ここからが気持ちよい。一列ごとに、パタンパタンと倒して、列を成すとうもろこしの粒を一気に食べることができる。おかっぱ頭のような形になったとうもろこしが、どんどん顔の面積を増やしていく。それでぐるっと一周分の列を倒したとうもろこしの残った粒は、結局かじりついて食べる。そこからはもう面倒になってそうする。それがなぜか私のとうもろこしの食べ方の定番になっている。

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